Saturday, 13 September, 2025г.
russian english deutsch french spanish portuguese czech greek georgian chinese japanese korean indonesian turkish thai uzbek

пример: покупка автомобиля в Запорожье

 

語り継ぐ戦争 沖縄戦でからくも生き残った父の体験を語り継ぐ中村桂子さん

語り継ぐ戦争 沖縄戦でからくも生き残った父の体験を語り継ぐ中村桂子さんУ вашего броузера проблема в совместимости с HTML5
愛知県北名古屋市に住んでいた父、日比野勝広(2009年、85歳で死去)は沖縄戦の語り部でした。亡くなった戦友のため、名古屋市の日泰寺で法要を開き、晩年も年に3度も沖縄を訪ねていた。  若いころ、私は父が理解できなかった。むしろ戦争賛成なのかな、と思っていた。貧乏な人形師なのに、毎年、仕事も家庭も放りだし、沖縄へ通っていた。戦友会が最優先で、姉の結婚式の2次会にまで戦友を大勢連れてきた。     *  その父が高齢になり、2000年ごろから私たち4人姉妹が交代で沖縄へ同行するようになった。そこで父の戦場体験の重みに気づきました。  1943年、徴兵で陸軍に入り、中国転戦の後、44年8月、沖縄へ投入された。那覇が空襲される前で、「竜宮城のような美しい島」だったといいます。  翌年4月、沖縄本島に米軍が上陸。艦砲射撃、火炎放射器、機関銃で迫る敵に、わずかな武器しかない。戦友は足がちぎれ、両目が飛び出し、全身が焼けただれた。7、8人の分隊の隊長だった父は部下に爆雷を抱かせ、戦車に飛び込ませた。床にぶつけた卵のように、人間がつぶれたそうです。現地召集の少年兵3人に水くみにやらせたら、1人しか戻ってこなかった。  父も「灼熱の鉄棒で殴られたような」衝撃があり、右腕と右足から血が流れ出した。仲間はみな戦死し、気を失っていた父だけが救出された。  野戦病院は奥行き15メートルほどの横穴。でも破傷風を発症した者は助からないと、父は治療対象外で、「前線で死ねばよかった」と涙が出たそうだ。動かせる患者だけが撤退することになったが、強引に棚の上から担架に飛び降り、別の病院壕に連れて行ってもらった。ここも敵が近づき、結局放置された。  それが、今の南城市の糸数アブチラガマです。長さ200メートル余の自然洞窟で中は真っ暗。百数十人の患者が置き去りにされ、食べ物も水もなく次々に死んだ。父は爆風で飛ばされた先で地下水のたまり場を見つけ、奇跡的に生き延びた。避難してきた地元の人からご飯を分けてもらった。  投降したのは終戦1週間後の8月22日。数カ月ぶりに昼間、光の下で歩き、生きたいと思ったそうです。     *  戦後、引き揚げてからまず戦友の遺族を訪ねた。最後の様子を伝えようとしたが、「あなたは、要領よく逃げたのね」と言われ、つらかったらしい。61年、戦後初めて糸数を訪ねたら、「患者の兵隊さんじゃないか」と呼び掛けられ、交流が復活した。毎年、戦跡を慰霊に歩く父は、平和ガイドを手伝って体験を語ることもしていた。それがこちらにも伝わり、語り部をするようになった。  父の死ですべて終わったと思ったが、代役を頼まれ、私が高校の沖縄修学旅行の事前学習の講師などに呼ばれています。9月、ピースあいちの「戦争体験・語り継ぎ手の会」代表になりました。  父は「死ぬのは簡単だ。生きるのが苦しい」とよく言っていた。遺品整理で中国戦線時代の写真が出てきたが、人を殺した後の思い詰めた父の顔に家族は涙を流した。
Мой аккаунт