【Hatsune Miku】負傷. 校及家庭用言文一致叙事唱歌第四篇. : Une blessure. 【vocaloid 2】初音ミク
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Une blessure
(Comptine de la chanson de la guerre dans les fois de la Guerre russo-japonaise)
負傷 学校及家庭用言文一致叙事唱歌第四篇 歌:初音ミク (Vocaloid Hatsune Miku)
「負傷」は、京都市の小学校教師だった眞下飛泉によって作詞された学校及家庭用言文一致叙事唱歌の第四篇となるもの。明治37年(1904)、飛泉は受け持ちの5年生の児童に自作の「出征」という唱歌を学芸会で歌わせた。日露戦争に題材を採り、農村青年の武雄が老父母を残して出征していくという内容で、集まった父母たちに大変な感銘を与えたという。その続編として第二篇「露營」、第三篇「戰友」が書かれたが、特に「戰友」は演歌師達が積極的に街で歌ったこともあって大評判となり、京都市五車楼書店から出版された楽譜・歌詞集は大ベストセラーとなった。「負傷」は、続編の第四篇として発表されたもの。歌詞は当時の小学生が歌うことを念頭に書かれており、ひらがなが多い平易な文章となっている。さらに、続編は学校及家庭用言文一致叙事唱歌として、第十二篇まで発表された。
同時代に発表された、下記の歌と聞き比べてみるのも一興だろう。
http://www.youtube.com/watch?v=O15zXSZNPWQ
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序
現今學校唱歌といへるものゝ歌詞頗る難解にして、古言古語さへ加はれる所より、教授者すらよく之を解し得ざるもの甚だ多し、滑稽というふべし、余輩少しくこゝに見る所あり、言文一致の軆を以て其内容もつとめて平易通俗に唱歌しつゝも感興を得しめんと志して、試みに世に問ひたるに、果せる哉望外の歓迎を博し得て、今や工男工女車夫馬丁の徒に至るまで、鼻唄に代わりて朗誦されんとするの勢ひを示せり。本懐之に過ぎずといふべし。(飛泉)
負傷 学校及家庭用言文一致叙事唱歌第四篇
作詞:眞下飛泉
作曲:三善和氣
明治三十八年十月七日
一.父上様か母様か おゝ妹もごいっしょに
遠い所を遙々と よーこそお出下さった。
二.お別れ申した其日より 覺悟は立派にしましたが
船の中でも彼地でも 忘れかねたる胸のうち。
・・・・・・・・・《以下 十五番まで 略》
作詞者、真下飛泉(ましも ひせん1878‐1926)は、明治-大正時代の歌人、詩人。初期明星派の歌人。京都出身。京都師範卒。本名は滝吉。筆名は別に滝郎。明治11年(1878)10月10日、京都府加佐郡河守町(現福知山市大江町河守)の農家の二男として誕生。京都師範学校卒業後、教職のかたわら文芸に傾倒する。特に短歌は与謝野鉄幹に師事し、鉄幹主宰の「明星派」の影響を強く受ける。小学校訓導、校長をつとめ、のち京都市会議員となる。大正15年10月25日持病の心臓病を悪化させ死去。49歳。著作に「叙事唱歌集」「童謡の研究」。飛泉自身には戦争体験はなく、のちに義兄となる木村直吉から、奉天(現在の中国東北部の瀋陽市)会戦の実情を聴いて作詞したと伝えられている。
作曲者、三善和氣(みよしわけ・みよしかずおき1881-1963)は、作曲家・ピアニスト。作曲時は京都市立第五高等小学校の音楽教師で25歳であった。三善は東京音楽学校を卒業せず教職についた。のちに職業ピアニストとなり、昭和初期、宝塚音楽歌劇学校の講師になった。